二条城絶叫

john fruscianteと荒木飛呂彦と舞城王太郎と伊藤計劃が好きすぎて二条城にて絶叫。連絡先は2jojojotaroアットマークgmail.com まで。 Last.fmのアカウントはhttp://www.lastfm.jp/user/nijojo

舞城王太郎 そのいくつだ?

 ここのところ滞っていた舞城王太郎に関するあれやこれや。

 

 ある児童文学者が講演で、近年の児童文学に欠けてしまったものについて熱弁をふるっていた事を思い出した。3年ほど前の話だ。曰く、近年の児童文学は幼稚化してしまっていると。それが純文学作品群にも上がってきていて、テーマとなる部分が単純化(純化ではなく幼稚化)している、との事だった。

 児童が文学作品を読むときの動機にはかつて、未知への好奇心以外に、人生の生き方や人生の目的を探る、なんてものがあったらしい。それが失われ、現代の児童文学は単純にエンターテイメントの為の文学、好奇心を補う為の文学と化しているのが嘆かわしい、と彼は言った。その兆候を彼が見つけたのはちょうどわたしがこどもだった頃の事だそうで、その頃の子供が、弱い児童文学で育った影響で、彼らが大人となった今の文学界はエンターテイメントに傾倒してしまっているのだという。同様のエンターテイメント性ならば、小説ではなく、映画やドラマに求めれば良いので、結果小説は売れなくなっている。というのが彼の主張だった。

 わたしはそれをなるほどと思って聞いていた。

 バブル期には随分と冒険的で、大人の鑑賞に堪える深い児童文学、なんてのが流行っていたらしい。もちろん売れないが、バブルなので関係ない。それが急にバブルがはじけると売れなくなり、負債となる。あわてた出版社は、児童らしい児童文学を求めるようになり、それが幼稚化に拍車をかける原因となり、ひいては今の文学界の現状に繋がっているのだと。

 懐古主義的なところがあると思わないでもないが、これはただしい指摘だろう。売れる為の本が売るし、求められる。売れる為の本は読者を適切に分析していなければ書けない。従って、文学の幼稚化という問題は読者の幼稚化に起因していることになる。

 

 この場合の幼稚化というのは、その児童文学者の言を借りれば、恋愛や性、暴力などの本能に近い問題が単純化しているとの事で、葛藤や現代社会の世相繁栄より、単純な恋愛・性・暴力がもてはやされているのが幼稚化であるらしい。

 例えば綿谷りさが恋愛関係のテーマを核にした作品しか書いていないように、舞城もまたこれらの幼稚化されたテーマを意図して追いかけ続けているが、果たしてそれは書き手の単純化なのだろうかとわたしは思う。

 つまり、読者や世相をしっかりと分析して何かを書きあげるような作家であれば、これら売れ筋のテーマを狙うのは当然で、そこにプラスアルファの何かを入れてきているはず。

 

 

 

 それは簡単に見つける事が出来る。短編五芒星でもいいし、スクールアタック・シンドロームでもいい。性と恋愛と暴力と言うエンターテイメントに徹している点と、作中の登場人物の行動の安易さが答えだ。何を意図してそんなふうに物を書いているのかを考えると、舞城が現代人に足りないと思っているものが見えてくる。

 つまり舞城が心地よいと感じる多くの読み手は彼の計算の上で踊らされている。わたしもそうだったし、彼の狙うところは私の狙おうとしている所でもあった。

 

 問題は、舞城の狙うサブテーマが、馳星周作品のサブテーマ、もっと言い換えればノワール作品群の狙いとだだ被りしている事である。一般的なエンタメ作品を読まされていると思いつつ実はXXX、という訳でもなくストレートにXXXしているというのは深みに欠けるが、どういうことだろう。

 また、破天荒型の主人公を使った作品の狙いはつまりこれなんだろうけど、その多くが駄作、あるいは失敗作として突っ返されているのは何故なのだろうか。プロットの工夫が必要なのか、あるいは目につきすぎると癇に障るのか。難しい所だ。