二条城絶叫

john fruscianteと荒木飛呂彦と舞城王太郎と伊藤計劃が好きすぎて二条城にて絶叫。連絡先は2jojojotaroアットマークgmail.com まで。 Last.fmのアカウントはhttp://www.lastfm.jp/user/nijojo

書評/ふがいない僕は空を見た/窪 美澄

 日本に帰ってくる飛行機の中で首をひねりながら読んだ。

 

 てっきり中長編かと思っていたら短編集。女のための女によるR-18文学賞(新人賞)って短編の賞なんだなぁなんて思いながら表紙を開いていざ読み進めて驚愕。舞城王太郎フォロワーもいいところだったからだ。2009年の受賞で、って舞城がビッチマグネットで芥川賞の候補になった年で、よくもまぁというかなんというか。村上春樹が流星の如く現れてからの二十年間、フォロワーが雨後の筍のように湧いて出ていてその多くが影響から脱出しきれてないって「ちょっと似てるだけ」で切り捨てられていたのに、これは一体どういう了見なんだろうと思ってしまう。

 文体が似ているだけのフォロワーで受賞なんてことはありえないだろう、って思ってそこから抜きんでる何かがあったんだろうかと思って読んだ。読んだが、舞城を下敷きにして詰み上げた何かを見つける事は出来なかった。舞城は女の心情描写が上手い作家で、家族性とか愛とかいった普遍性を暴力と性で味付けした作品を発表し続けている。それと同じことを窪美澄はやっている。同じ文体で。

 

 

 たとえば、高校のクラスメートのように、学校や予備校帰りに、どちらかの自宅や県道沿いのモーテル、もしくは野外の人目のつかない場所などにしけこみ、欲望の赴くまま、セックスの二、三発もきめ、腰回りにだるさを残したまま、それぞれの自宅に帰り、何食わぬ顔でニュースを見ながら家族とともに夕食を食べる、なんていうのが、このあたりに住むうすらぼんやりしたガキの典型的で健康的なセックスライフとするならば、おれはある時点でその道を大きく外れてしまったような気がする。

 終業式を終えたおれは、一学期の通知表をカバンにいれたまま、自宅を通り越して橋を渡り、河原沿いに建つマンションのエレベーターに乗り込んだ。最上階で降りて、あたりを見回し、廊下のいちばん奥にある部屋に向かって歩いていく。鍵がかかっていないドアをできるだけ小さく開けてすり抜けるようにして部屋に入り、玄関わきにある小さな部屋のドアを開ける。

 

 例えば冒頭がこんな感じで始まるわけだけど。最初の段落読んだ段階で明らかに舞城のドライブ感を意識しているなぁってわかるわけですよ。「。」を使わない一文で一気読みさせることで独特のリズムを持つ自分の文体=世界観に引き込んでしまうテクニック。それを頭から最後まで維持させてしまうのが舞城文体最大の特徴であり見せ場なんだけど、窪の場合第二段落以降失速していくから、おや?と思う。

 舞城以前なら納得できる。これがあって舞城に繋がるのならそれは発展で美しい一つの流れだ。だけれどこれは舞城以後なんだ。舞城以降でフォロワーの指摘を受けることがわかっている上で似た文体で作品を出すならば当然、ドライブ感を保つために言葉の端々まで意識された舞城の文体の美点を再現した上で超えて行かなければならないのに。だから私は、おやおや?と思う。

 これって考えなしに文体を模倣した、というか舞城の影響下から抜け出られていないだけなんじゃないの?と。つまりそれって純文学として評価を得ることは有りえないということで、だからこそR-18文学賞から出てきたんだろう。そう思って空港に着いてからあれこれ調べたらhttp://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi116_kubo/20110727_5.htmlにHITして、こんなことが書いてある。

 

 

――新人賞に応募する際、なぜ「女による女のためのR-18文学賞」を選んだのでしょう。

 

:たまたま最初に書いたもののタイトルに「マゼンタ」という言葉が入っていたんです。それで、似たタイトルの小説ってあるのかなと検索したら、日向蓬さんが『マゼンタ100』という小説で「R-18文学賞」の第一回の大賞を受賞されていたんですね。それでこんな小説の賞があるのかと思って。実は第二回くらいにも応募しているんです。この賞は枚数の上限が50枚なので、それなら仕事や家事をしながらでも書いて応募していけるかなと思って。テーマが性にまつわることとはっきり書いてあったことも大きいですね。ライターってテーマを与えられると燃えるじゃないですか(笑)。ほかの応募作はガーリーな話が多かったので、助産院の話だと面白いかなと考えたんです。でも毎回書いていたわけじゃないんです。2回目に応募して、次に応募したのは6年くらい経ってから。その間にほかの文学賞にも1回か2回は応募したんですが、箸にも棒にもひっかかりませんでした。家庭が揉めはじめたので小説どころではなくなってブランクができてしまったんですが、40歳を経てようやくこれは本気を出さないと、と思って「ミクマリ」を書きました。

 

 その間にほかの文学賞にも1回か2回は応募したんですが、箸にも棒にもひっかかりませんでした。

 それが純文学系の賞だとしたら、つまりそういうことだ。しかしまぁ一回か二回応募ということもあるまいし、読書歴を聞かれ舞城のまの字も出ていないのも、つまりそういうことだろうとも思う。関係代名詞を強く意識した、日本語としては作為的な文章を書いておいて舞城の名前が出ないのは変だよ。だいたい影響を受けたとしている作家の名前が舞城のそれとだだ被りで舞城を読んでないわけがない。名前が出せないとしたら、コピーであることを解っているから出せないんだろう。

 

 本屋大賞山本周五郎賞も、わからないなぁ。

 R-18文学賞ももっとわからない。

 

 ただ、感性だけは本物だなぁと思った。作品を通して匂ってくる、女特有のねちっこさ、重苦しさ、女の想像するどこかずれた男性像。これは女性による女性の為の文学賞に相応しく高い質を保っている。産んで育てる事を希望があることのように描くのが男性作家だけれど、現実はそう甘くねェし良い事ねェ産んで育てる事に希望なんてねぇんだよ、って一段進んで悲観的な側から作品を作っている点も評価された理由の一つだろう。

 

 けれど文体はリライト食らわないのが不思議なくらいに舞城の模倣だ。女のための読み物で一人称で文体変えると綿谷りさと被ってしまうのは良くわかるけれど、そこの壁を突破できるかできないかが作家とそうじゃない人の壁なんじゃないのかなぁと思うんだけどなぁ・・・。

 

 それを踏まえた上で作者が作品を発表している雑誌なんかを見ると趣深い物がある。

著者名単行本未収録作品

 

 

 

 2015年を過ぎたあたりから新潮とか群像に掲載されたりなんかしちゃうんだろうなぁとか考えると、意外なところに抜け道ってのはあるもんだなぁ、とため息を吐かずにはいられない。経済性と芸術性の衝突点なぁ・・・

 それともあの独特の文体の模倣をやってもフォロワーとして見られなくなる時代になったということだろうか。村上春樹の場合、2000年後半に入ってようやく、という感じだったけれども。森見と万城目の類似は同時代性で解決できる問題だったが、これは10年遅れだしなぁ。

 そして10年経っても後進を許さない舞城文体恐るべし。